【妄想官能物語】背徳の甘い罠 1-1 偶然か、必然か

第一話「再燃する記憶」

ワイングラスの中の氷が、静かに溶けていく。

白い指でグラスの縁をなぞりながら、私はぼんやりと赤ワインの色を眺めていた。グラスを傾けるたび、仄暗いバーの照明を映して揺れる深紅。まるで、長い時間をかけて沈殿していた記憶が、微かに揺らいでいるようだった。

「……由梨?」

低く響く声が、空気を震わせた。

その瞬間、心臓が一気に跳ね上がる。

あまりにも懐かしくて、忘れようとしていたはずの声だった。驚いて顔を上げると、そこには見覚えのある横顔があった。

「……翔?」

ゆっくりとグラスを置き、言葉にならない想いを呑み込む。

黒のシャツのボタンを一つ開け、グラスを片手に持ったまま微笑む彼。8年前の記憶の中にいた彼と、ほとんど変わらない。むしろ、時間が彼に余裕と色気を纏わせて、より危うく美しい存在にしている気がした。

「久しぶりだな。」

彼の視線は、まるで私の心の奥を探るように絡みついてくる。

「……本当に、偶然ね。」

私は、かすかに笑みを浮かべながらそう返した。こんな再会があるなんて、想像もしていなかった。でも――偶然だろうか?運命と呼ぶには、あまりに残酷な出会いだった。

彼の視線が、私の左手にわずかに留まる。指輪をしていることに気づいたのだろう。

「結婚、したんだな。」

「うん。もう5年になる。」

「そうか……」

彼はグラスを揺らしながら、静かに微笑んだ。

8年前、翔とは大学時代に付き合っていた。心から愛していた。でも、親の反対と彼の海外赴任が重なり、自然と別れることになった。あの時の選択は、間違いではなかったはずだ。夫との生活は穏やかで、何の不満もない。

なのに――。

「由梨は、変わらないな。」

そんなわけない。

心の中で否定する。でも、翔の目に映る私は、まだあの頃のままなのかもしれない。

「翔こそ、変わらないね。」

「いや、俺は変わったよ。仕事も、環境も、考え方も。でも……」

言葉が途切れ、彼は私の目をまっすぐに見つめた。

「お前の前では、変われない気がする。」

一瞬、息が止まった。

何を言っているんだろう。私たちはもう、過去の関係には戻れないはずなのに。

それなのに、胸の奥にくすぶっていた何かが、ゆっくりと温度を上げていくのを感じた。

「……そんなこと言われても、困るよ。」

「だろうな。でも、由梨がここにいるのも、偶然じゃない気がする。」

「どういう意味?」

彼は少し笑いながら、グラスを置いた。

「由梨は今、満たされてるか?」

不意を突かれた。

「そんなこと……」

答えに詰まる私を見て、翔は静かに微笑んだ。その笑みは、まるで何かを確信しているかのようだった。

このままじゃいけない。私には夫がいる。幸せな生活がある。

「もう、帰らなきゃ。」

逃げるように立ち上がる。けれど、翔の手がそっと私の腕を掴んだ。

「……もう少しだけ、話せないか?」

「……」

腕を振り払うことができなかった。

こんな偶然の再会、一度きりのはず。そう思えば、あと少しだけなら――。

「……少しだけ、なら。」

その言葉が、運命を変えることになるなんて、まだ気づいていなかった。

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